2002年2月10日
おめでとう!そしてありがとう。里谷多英さん
本当に、感動した。
まさに、奇跡のドラマである。いや、奇跡というより彼女の努力の集大成であった。
今日、彼女のパフォーマンスは、スキーに行く途中の車中のテレビで確認できた。
長野の時はお父さんからもらった奇跡の力、今回は自分の力で勝ち取ったメダル。
彼女は、インタビューで答えた。
確かに、長野のときは、奇跡的な金の印象を持った。
同じ、スキーを愛する人間として、今日のインタビューを聞いて、涙が出た。
そして、今わかった。
前回、彼女はお父さんの奇跡の力で勝ったのではない。
本当に大切な父親を亡くし、不幸のどん底から自らの力で勝ち取ったのだ。
彼女のインタビューを聞いて今、その偉大さに気がついた。
『お父さん,今度は自分の力で銅メダルを取ったよ
この言葉を聞き天国のお父さんはきっと『ありがとう多英』と涙を流しているに違いない。

以下に新聞紙上の記事を紹介する。
私は、この記事を一生の宝としたい。

◆何のはばかりもなく見せた大粒の涙◆

 「お父さん、見ててね」。里谷はウエアの右ポケットに大切にしまった、父との思い出の品を入れた“お守り”に語りかけ、勢いよくスタートした。悔いの残る滑りはしたくない。スキーを教えてくれたお父さんのためにも――

 4歳からスキーの手ほどきを受けた最愛の父、昌昭さんが54歳で亡くなった7か月後、長野五輪で金メダルを取った。しかし、直後から「競技をやめたい」と感じ始めた。燃え尽きて、モーグルへの意欲をなくしていた。周囲から現役続行を説得され、とりあえず“休み”をもらった。

 しばらく練習に顔を見せなかった。「友だちと海に行ってきたんです。これまで行ったことがなかったから……」。小学6年生で全日本選手権を制して以来、トップに君臨し続けた。「ひょうひょうとした姿からは想像もできない心の張りがあった」とコーチの1人は振り返る。押しつぶされそうになった情熱は、友との遊びでリセットされた。「次の五輪まで頑張ります」。

 ゲレンデには戻ったものの、天才肌と言われるだけに浮沈の波が激しかった。昨季の世界選手権では、10位。高難度の技に挑戦しているのに、審判の採点は、難度の低い技の選手の方が高かった。「日本に帰りたい」と泣いたが、翌週には同じ顔ぶれで争われたワールドカップで2位に食い込んだ。

 失敗のリスクが高くても、審判の評価が低くても、里谷は大技への挑戦をやめなかった。「本来、モーグルは楽しい競技。簡単な技の方がいい点が出るかもしれないけど、それじゃ見ていてつまらない競技になっちゃう」。亡き父が厳しく教えてくれた「スキーの楽しさ」は、点数稼ぎの犠牲にできるものではなかった。

 決勝。里谷はスタートから飛ばした。スキーを横に振らない。直線的に突っ込む攻撃的な滑りだ。2つのエアの高さも十分。ゴール直後は硬い表情でボードを見ていたが、点数を見てホッとした表情を見せた。「滑りは自信あったけど、点が出るか不安だった――」

 4年前は「亡くなった父が取らせてくれた金メダル」と涙を流した。

 ソルトレークでは、笑顔を振りまく1位、2位の選手の隣で、何のはばかりもなく、また大粒の涙を流した。「お父さん、今度は自分の力で銅メダルを取ったよ」と。(2月10日19:18)